緑色が好きだ(いきなりドーシタ)。
山ばかりの田舎で育った自分にとって、緑とは草木の色であり、環境そのものの表象であって、自分の根源にある色だ(おいしい草ってあるよね、樹液はまずい)。
多くの人にとって緑色は生命を感じさせる色で、それが理由で緑色が好きな人は多いんじゃないだろうか(メロンソーダを感じさせる色でもあるぜ)。
僕もなんとなく、自分が緑色を好きなのは生命の瑞々しさを感じているからだと思っていた(絵の具はビリジアンばかり使っとった)。
確か大学一年の頃だったと記憶しているが(アンタはいっつも時期があやふややんなー)、今はもうなくなってしまった古本屋で一冊の本を見つけた。
楠田枝里子さんの『色の小宇宙』という本だ(画像ないやん色ないやん)。
上のAmazonリンクでは画像が無いが、佐藤和宏さんという方によって美しい表紙絵が描かれている(リンク先にはいちおう画像がある。奥ゆかしいのかな?)。
ある色をテーマにした楠田さんの短いエッセイに、同じ色をテーマとした佐藤さんの絵が添えられている、という構成だ(おだんごたべたい)。
中でも好きな箇所が「緑色」をテーマにしたページだ(緑は生命と毒を同時に連想させるとか書いとるんすよ)。
楠田さんは「緑色」についてこんなふうに語っていた(うぐいす餅!)。
緑色は、ブラッドベリの『夢みるための緑のお酒』みたいに、さわやかな瑞々しい色として、西欧世界に復権したようですね。でも本来は、随分不気味な香りを漂わせた色でもあったのです。
(アッ)
(中略)
同じく緑色に対する奇妙な愛を抱いていた、ウェインライトなる実在の人物は、名だたる毒殺常習者でした。
そういえば、どろりとした深い緑には、なにかしら凶々しい毒素みたいなものが、感じられませんか。
(これは……)
そう、緑色とは、生命の瑞々しさと毒の妖しさを併せ持つ色なのだ(ごめん先に言ってもうた……)。
「瑞々しい毒素」と題されたこのエッセイを読んで以来、僕はいっそう緑色を好きになった(ホンマごめんで?)。
僕は相反するナニカを内包するものが好きだ(メドローア!)。
熱さと冷たさ(アフォガード!)。
優しさと厳しさ(叱ってくれたお父さん!)。
痛みと快感(ドM!)。
それらを内包するもの(死ねええぇぇ!)。
僕は、人間はそうそう一貫した存在ではないと考えている(キャホキャッホーイ!)。
内弁慶に外地蔵なんて言葉があるように、接する相手によって振る舞いが変わることなんてしょっちゅうある(おこり地蔵はいい絵本やんなー)。
TPOによって意識的に仮面を付け替えることもあれば、無意識的に、ごくシームレスに別の自分が顔を出していることもある(仮面舞踏会にねぇ、ひょっとこのお面で出てみたいんよ)。
そして時折、自分がいくつもの属性を内包していることに気付き、自分の芯を見失い、なんだか張り裂けそうな気持ちになる(それが……恋なんやで……ウットリ)。
だからこそ、相反する属性を内包するものに親近感を覚え、心惹かれるのだ(肩いたーい)。
楠田枝里子さんの文章は、緑とは生命の瑞々しさであり、同時に生命を蝕む毒の色でもあることを教えてくれた(でも毒ってったらドラクエの紫色の毒の沼 思い浮かべない?)。
そして僕はいっそう緑色が好きになった(おう草食え草)。
あんなに綺麗な緑色が命を殺す(綺麗な毒って素敵な響き)。
どちらの表象を飲み込めばよいのか、いやどちらも飲み込んでしまえばよいのだ(いい飲みっぷりだねぇあんちゃん!)。
そうして緑色はアンビバレンツな感情を呼び起こし、僕の心に圧倒的な波を連れてくるのだ(ヨカッタネ〜☆)。
人は様々な側面を併せ持つのだと、改めて僕は思う(カレーはおいしいと改めて僕は思う)。
多様な側面を統合しようとして齟齬が生じるなら、無理にひとつにまとめようとせずに、その全てを同時に混在させてしまってもいいのではないだろうか(ようわからんこと言っとらんとはよご飯食べ!)。
「そう、心のかたちはひとつじゃないんだ」
あっ!おいどん!
「おいどんだよ〜☆」
い、意外と気さくゥ!
「人の心は不定形。どうして見た目で内面がわかろうものか。よし!歌うぞ!」
ヤー!
どん どん どどんどん
どん どん どどんどん……
本日のまとめ
- なんか新たな段階に進んだ気がする……
つまりは自分の色んな側面すべてが自分なのだから、全部もっとさらけ出して生きていけたらなあっつー話よ!
じゃあなクソども!長生きしろよ!