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思惟ノート

天然パーマとオッサンを応援する、天然パーマによるブログ

ダグラ 【第1回】短編小説の集い (A: ホラー)

小説
 


【第1回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - 短編小説の集い「のべらっくす」

 

 

タイトル『ダグラ』

テーマ『A: ホラー』

2,995 / 5,000字

 

 

 ダグラの正体については諸説あるが、まずはそれが現れる際の形態について確認しよう。幼い頃、山や森の木々の中で、青白い二本の木を見たことのある者は多い。それがダグラだ。あなたも見たことがあるかも知れない。細長く伸びる木。てっぺんを見ようと目を凝らしても木の葉に紛れて見えない。そしてその二本の木自体には葉も枝も生えていないことに気付く。面白いことに、皆上ばかり気にして根本に重要な情報があることに気付けない。近付いて根本を見れば、それが木ではないことがすぐ分かる。なぜなら根があるはずの場所には手のひらがあるからだ。ダグラとは、天から地面に向かって伸ばされた、何者かの長い長い腕なのだ。
 その腕の持ち主が何なのか判然としない点が、ダグラに関する言説が収束しない所以でもある。例えば一つの説に、神楽の舞い手が「堕ちた」姿だとするものがある。まあ個人的にはこの説は正しくないと考えている。第一に発想が安直だ。「カグラ」の舞い手が「堕」ちたからダグラだと。「堕楽」という当て字をするにも無理があるし、ダグラが目撃された山々では神楽舞の伝承が存在しないものの方が多い。腕が舞うような仕草をするなら話は別だが、そういった目撃例も存在しない。
 
 またもう一つに、山で死んだ人々の集合体であるとする説がある。この説では、ことの始まりは崖などから転落死した人物だと推測されている。崖から落ち、樹上に引っ掛かったは良いものの、その際に運悪く堅い枝が突き刺さって死んだと。だらりと垂れ下がる二本の腕は、地面に帰りたがって下へと伸びる。ただ、本来的には土に還りたいと望んでいる訳ではなく、寂しいから手を伸ばすのだという。人間が本来住むべき地面に至れず樹の上で独り、というのは理性を伴わない(少なくとも伴わない場合の多い)霊魂にとっては途方もない苦痛なのだろう。だからダグラは人を捕るのだとするこの説は、神楽の舞い手が堕ちたとする考えよりは、ダグラが人を捕るだとか人に付いてくるだとかいう特性に説明を与えている点で説得力があるように思える。ダグラに捕らわれ、ダグラに同化する。そうやってダグラは肥え、拡がり、次の仲間を探す。しかし孤独が人を捕る原因だとすると、一定数の仲間を得た時点で満足してもおかしくない。第一なぜダグラという名なのか説明が付かない。ただ、ダグラに連れていかれないためには近付かない方がよい、という点については賛同できる。
 
 そうそう、最初に皆ダグラの根本に手のひらがあることに気付かないと言ったが、実はそれが望ましいのだ。ダグラを見付けたとして、不必要に近付いたり、まして手のひらに触ってはいけない。どのような霊的存在にも言えることだが、基本的にこちらが「そういった存在に気付いていること」を気付かれてはいけない。彼らは住んでいる世界が違うので、本来我々に干渉することはできない。できないのだが、例外が霊的特性の強い人間に対してだ。いわゆる霊感のある相手に対しては、幾らか干渉できる。霊的存在に気付くとかましてやこちらから関わっていこうとすることは、自分が霊的干渉を受けうる存在であることを示す行いであり、格好の獲物であると大声で表明するようなものだ。従って、ダグラの手のひらに触れようものならすぐさまこちらの腕を掴まれる。引っ張り上げられる。何をされるのかは分からない。
 
 ただ、ダグラに関するもう一つの説として猿神がその正体だとするものがあり、こちらの説では引っ張り上げられた人間は喰われるのだと云う。確かにダグラに腕を引かれ連れて行かれた人々に対しては「捕られた」だとか「持っていかれた」とかいう表現ではなく、「ダグラにくわれた」という言葉が使われることが多い。悪神としての猿神伝承は数多くある。年老いて目の見えなくなった猿が、神となって腕だけで獲物を探すというこの説は悪くない。また、全国各地の山でダグラが目撃されることにも説明が付けやすい。さらにはなぜダグラと呼ばれるか、という点にも一定の根拠を与えられる。ある北国の山村では、ダグラ伝承が根強く残っている。その村の子どもたちは、山の腕には近付くなときつく言い聞かせられて育つ。村民たちによると、ダグラとは「人喰らい」のことだそうだ。ひとぐらい、どぐらい、と訛っていき、今はダグラと呼ばれているのではないかと彼らは言う。この考えはダグラが人を捕るという点、なぜダグラと呼ばれるかという点を説明できる興味深い言説だ。また、ダグラに気付いた者を腕がゆっくりと追ってくる点も説明できる。ダグラに一度近付いてしまうと、匂いを辿られると考えればよい。動物の、しかも神となった動物の嗅覚を以ってすれば造作もないことだろう。山奥から伸びる腕が自分を捕まえに来る。あまり想像したくない光景だ。
 しかし、その腕こそがこの説における問題点なのだ。ダグラは青白い腕として目撃される。明らかに人間のものだ。猿神がその正体であれば、毛の密集した動物的な腕になるだろう。或いはダグラとは猿神とそれに喰われた人間が同化したものなのかも知れない。様々な言説が真実の別々の側面を記述していることはままある。そう考えると、またここに来て神楽の舞い手が堕ちたものという説が一つの示唆をもたらす。そもそも神楽という言葉は神座(かむくら)に語源があると言われている。神座とは神の座、神の宿る場所を示す。古来より人は神座に神を招き、様々な儀式を行ってきた。その際の舞を神楽と呼ぶようになったのだ。つまりダグラを堕座と表記できるなら、堕ちた神が宿る場所とも解釈できる。ダグラとは悪神の宿る場所を示し、ひいては婉曲的に悪神そのものを指しているのかもしれない。だが、口惜しいことに、結局のところ真相を知るにはダグラに喰われるしかないのだ。
 
 ただ一つ確かなことは、ダグラを見付けても近付かず、気付かない振りをすべきだということだ。仮にダグラが腕を伸ばして追ってきたとしても、その速度はそれほど早くない。また、ダグラは目が見えないことも幸いな点だ。これだけ人間に溢れている現代なら、急いで山を降り人ごみに紛れてしまえば、自分の匂いが他人の匂いと混同されて他の誰かが標的に代わる可能性は少なくない。その人が霊感が無ければより幸いだ。ダグラも喰えない標的を追い続けるような無益な行いはしないだろう。仮にダグラが自分の家まで来てしまったとしよう。その場合も、今度は人間の匂いが強すぎてダグラにはこちらの正確な居場所がわからない。後はひたすら気付かぬ振りを貫いて腕が帰るまで待てばよい。気付いてしまえば、例えば腕を見つめたり腕を見て狼狽してしまえば、途端に引っ張られる。とにかく、気付かぬ振りが肝要だ。いつかはダグラも帰るだろう。ただ一つ私が心配なのは、そういったダグラの帰り道には大抵人間がいるだろうという点だ。つまり、誰かを追ってきたダグラに運悪く見付かり、追われる可能性が誰にでもあるということだ。しかしすぐに心配する必要は無い。自分に霊感が無いなら安全だし、仮にあったとしても、何度でも言うが、気付かぬ振りをすれば良い。腕が部屋の中を探っている側で平静を装うのは難しいかも知れないが、どうやらあなたはそういう振りは得意なようだし、後ろにいる腕は無視してそのまま気付かぬ振りを続ければ大丈夫だろう。
 
 
 
 
 
 
 
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