いつからか「人間になりたい」が口癖になっていたんです。勿論僕は妖怪人間ではなくれっきとした人間です。では、なぜ。
おそらくそれは「人間になりたい」ではなく「まっとうな人間になりたい」という意味だと思うんです。
僕の中にはまっとうでなければ人間を名乗ってはいけないという思いがあるんでしょうかね。
自分の心は意外とたやすくはわからないんです。
さて、「まっとうな人間」とはなんでしょうか。そもそもまっとうってなんでしょうか。辞書をひいてみましょうか
まっとう〔まつたう〕【全う】
[形動][文][ナリ]《形容詞「まったい」の連用形の音変化》まともなさま。まじめなさま。「―な人生」「―なやり方」
[補説]「真っ当」とも当てて書く。
[派生]まっとうさ[名]
へえ。「真っ当」って当て字なんですね。「全う」なんですね本来は。
「まっとうな人間」とは「まともでまじめな人間」という意味ですかね。
まともってなんですかね。決めるのは私か、あなたか、私たちか、私たちを取り巻く社会か。
まあ私の基準でまっとうを追求しましょうか。
「まっとうな人間になりたい」なんて私の心の問題ですからね。何がまっとうか、も私次第でいいんじゃないでしょうか。
それでは私の考える「まっとうな人間」ってなんでしょうか。正直なところ、これから先ずっと結論を出せない気がしています。
私は私の望むまっとうな人間像すらわからないままに、まっとうな人間になりたいと、この先一生思い悩むのだと思います。
ただ、ブログを書くとか、小説を書くとか、音楽を作るとか、そういった創作活動においては、思い悩む中で生じるネガティブなエネルギーがプラスに働き得ることを知っています。
だから、悩むのは嫌いじゃないんです。悩みを成長の糧にする方法も、別の活動へのエネルギーにする方法も、時間が立てば忘れてしまうことも知っています。
だから、そんなに嫌いじゃないんです。
だけど、だからと言って、一生悩み続けるなんてツラそうです。いつかは満ち足りたいです。
そのためには、どこかで足ることを知らねばならなさそうです。それが私の考えるまっとうな人間像かもしれません。
やっぱ瞑想かな。この世の無常を知り、注意機能を向上させ、足るを知り、自ら望む自分に邁進できるようになれるかしら。
人間になりたいです。どうしても人間になりたいです。いつかはなれるかしら。それとももうなっているかしら。それすらも自分の心持ち次第な気もします。
日々を必死に生きていないからこんなことを考えてしまうのでしょうか。
よく働き、日々の糧を稼ぎ、人を愛していかねばな。
今回もとりとめのない内容になってしまった。
じゃあそなた達も頑張るのだぞ。
さらばじゃ〜。