ストレス社会と言われる現代で、私も両手に余るほどのストレス源を抱えております。
幸いなことにおいどんには心優しい恋人がいるので、一緒に支えあうことはできる。大きな大きな箱に二人のストレスを詰め込んで、両側から抱えあげれば、互いが別々に持つよりも多くのものを持ち上げられる。
しかし、同じ箱には入れられんものもあるわいな。そういう類のものが積み重なってしまうと、ここではないどこかへ逃げ出したくなりますね。だけんどすべてを投げ出す勇気も無いしなー。
そんな時わたくしは川へ行きます。川を眺めます。その昔京都に住んでいた頃は、よく鴨川を眺めたものじゃったでのう……。
鴨川は本当に良かった。当時受験を目前に控えた私の淀んだ心も、鴨川の流れを眺めていると、段々と磨かれていく心地であった。すぐ側を老夫婦が散歩していたり、大学生らしきお兄さんがトランペットを吹いていたり。夕時に黄金色に輝く川面は大層きれいじゃった……。思い出すだけで涙がでるわい。受験は二度としたくねーけどな!
このように私は川が好きなのだが、では川のどこを好きなのだろうか。
思い出されるのはあまりにも有名な方丈記の書き出し。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」
そう、川の流動性に私は惹かれるのだ。絶えず流れる川の水は、微かな時間の中で幾千ものかたちを見せる。かたちを持っていない、と言った方が正確かもしれない。さらには音もいい。さらさらと、ざぁざぁと、せせらぐ音は絶えず変化を持って私の鼓膜をほぐしていく。こぽりこぽりと姿を変える川の流れを見つめていると、そしてその音に耳をさらしていると、心は定まらず、ひとつに定まらぬが故にかえって安定する。悩みに塞いでいた心が、心地よくかき回されるのだ。
また、「もとの水にあらず」と言うように、私が見つめる一点に訪れる水は、その全てが異なる存在だ。ここではないどこかから流れて来て、私の視界に飛び込み、そしてまた流れていく。
川とはつまり、私が求める「ここではないどこか」の膨大な痕跡であり、またそれ自体が「ここではないどこか」の気の遠くなるような集合体なのだ。
私は川を見つめる。そして「ここではないどこか」が次々と眼前に現れる。そうして私はいつしか、視界を占める無量大数の「ここではないどこか」を処理しきれなくなり、切なくなり、同時に高揚し、たまらなくなって立ち上がる。絶えず変わる川の水のように渾然とした心中は、もう私の手には負えなくなっているのだが、それ以上になぜだか晴れやかな気分になる。
おお、川のことを考えてるうちに胸が打ち震えてきたわい。
こんな夜はポエムを書こう。
それでは聞いてください。
川のポエム
作: カルキ水
Wow……
川は、どこから来て、どこへ行くのだろうか。
ある人は言った。
「きっと僕らのあずかり知らぬとこから来て、あずかり知らぬとこへ流れていくのさ」
またある人はこう言った。
「そんなことよりパーティー抜け出さない?(^_-)―☆バチコーン」
ゎたしゎ、胸の高鳴りを押さえつけ、そぃっにっぃて行った。
バルコニーから抜け出す二人。触れ合う手と手。
胸の高鳴りが圧死する頃には、彼とすっかり打ち解けていた。
夜の風を感じ、手をつなぎ歩き、気づけば橋の上にいた二人。
笑いながら欄干にもたれかかる。川を覗きこむ。
その拍子にゎたしゎ、青ぃ髪飾りを落とした。イッケネー。
とぷんと水音がした。
「あーあ」
悲しくもないけど、そんな声が出た。
そんな私を見て彼はイヒイヒと笑う。私もウフウフと笑う。
二人でひとしきり笑って、それから彼はこう言った。
「どこから来て、どこへ行くかなんて訊かれると、なんとなく後ろから来て前へ行くような、あるいは右から来て左へ行くような、平面的な動きが想像されるけど」
軽く息を吸い、彼は続ける。
「こんな風に、上から突然降って来るものもあるんだなァ」
「君の髪飾りは、果たしてどこへ流れて行くんだろうね?」
私はなるほど、と思ったけど、そうやって笑う彼の顔にドヤ顔めいたものを感じ、イラッとしたので取り敢えずビンタした。
左に向かう彼の顔。次いで体。あ、落ちた。イッケネー。
髪飾りよりずいぶん大きな水音をたてるのね。
「上から突然降って来たあなたは、母なる海にでも行けばいい」
そして私は夜の風に逆らい、おうちに帰ってスイーツを食べた。
了
うーむ我ながら心に染みるよいポエムだなぁ。教訓も深い意味も何もないところが特にいい。
上から降ってくる流れといえば雨か滝だな。滝を見に行きたいんだよなー。ナイアガラみたいに圧倒的に壮大な滝ではなくて、日本的な幽玄を感じさせるやつね。
ということで 今週の一枚「おさんぽ写真」
おさんぽというか以前山に登った時のやつです。
この時は素敵だと思ったんやが夜見ると怖いな。
それじゃあ今日はこのへんで。