思惟ノート

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塔から落ちたイソハヤミ 【第7回】短編小説の集い

 

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タイトル『塔から落ちたイソハヤミ』

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 目を覚ましたイソハヤミは自分が土の地面の上に倒れていることに気付く。うつ伏せのまま首だけを動かして辺りを見回すと、視界の右側にはどこまでも続く赤銅色の壁が、左側には壊れてしまったリガンドが見えた。リガンドの向こうには、小高い岩山が点在する荒れ地が広がっている。つららで心臓を刺されているかのような感覚に襲われ、鼓動が速まる。空を見上げると、壁は天高く延び、空を覆う半透明で灰色のメンブレンに突き刺さっていた。イソハヤミが見ているものは、単なる壁というよりは巨大な塔の側面といった方が正確だ。あのメンブレンを越えて塔がさらにはるか上空まで延びているのを、イソハヤミは知っている。羽の折れたリガンド。メンブレンの下の地面。頭の中はひどく混乱しているが、イソハヤミにはひとつだけ絶望的に確信できることがある。
――俺は塔から落ちたのだ。
 イソハヤミはいよいよ焦って、体全体を起こしリガンドに近づこうとする。その瞬間、右胸がズキンと痛んだ。塔から落ちた時に、肋骨にひびが入ってしまったのかもしれない。相当に辛いのは確かだが、全く耐えられないような痛みではない。イソハヤミは痛みに顔を歪めながらリガンドに近寄る。リガンドに4枚装着されている羽のうち、右側の2枚が折れている。おそらくこちら側から地面に落ちたのだろう。イソハヤミは操縦盤の下部にある呼吸器を取り出して装着する。少し息苦しいが仕方がない。下界は人の住める環境ではないと聞いている。倒れていたのはどのくらいの時間だろうか、下界の空気は吸っても大丈夫だったろうか。イソハヤミは不安に思う。しかしもっと不安なのは塔に戻れるかどうかだ。万が一塔から落ちた時はシグナルを発せよ。イソハヤミが教えられているのはそれくらいだ。ということは塔の基底部には入り口がないか、あっても入れないのかもしれない。実際、塔を眺めてみても入り口は見当たらない。
 まずはシグナルを飛ばそうと、イソハヤミは汎用キチン質繊維で編まれた作業スーツの胸元を探る。しかしそこにあるはずの個人用端末がない。イソハヤミははたと思い出す。そもそも手元からこぼれた端末を拾おうとしたせいで塔から落ちたのだった。身を乗り出して端末に手を伸ばしたことでリガンドがバランスを崩し、普段なら絶対に近づかないメンブレンに接近してしまった。そして強磁域に捕らわれたリガンドの羽ばたきは弱まり、メンブレンに向かって落ちて行った。粘度を持った霧のようなメンブレンの感触をイソハヤミは思い出す。ねっとりとした空間の中をリガンドもろとも突き抜け、イソハヤミは落ちた。地面に接触する直前、最高出力でホバー機能を使ったのだがこの結果だ。リガンドは壊れ、イソハヤミは傷を負った。この高さから落ちてしまえば端末も無事ではないだろう。
 なれば仕方がない。イソハヤミは操縦盤の中央に嵌め込まれた球体を取り外した。この青い球体はごくシンプルな発信器になっている。簡単なシグナルしか発せられない代わりに、そのシグナルは数年単位で繰り返し発信し続けることができる。イソハヤミは一定のパターンで球体を握り、発信器を起動する。そして今度は人差し指を使い、また別のパターンでトントンと発信器を叩いてシグナルを入力する。まずは救難信号。次に「イソハヤミ イダカノトウ ヨリ オツ」と最低限の状況説明を。指先が震えて入力がしづらい。酸素が行き渡っていないのだろう。呼吸器の息苦しさのせいだけではない。息を吸う度に右胸が痛むせいで、呼吸が浅くなってしまうのだ。イソハヤミはこれほど長い間強い痛みを感じたことがない。塔の中では、強い痛みを伴う傷を負った場合、すぐに治療されるか、少なくとも鎮痛剤により処置される。
 ようやく入力を終え、イソハヤミは発信器を手のひらで握り込む。発信器が微かに振動し、柔らかく光った。イソハヤミは発信器の光がゆっくりと消えるのを見届ける。シグナルは飛んだ。後は発信器を身に着けていれば、救援が来るだろう。人心地ついたイソハヤミはため息をつこうとして大きく息を吸う。しかし胸の痛みに妨げられ、途切れ途切れの息を吐く。安心したせいか、痛みがより強く感じられる。
 イソハヤミは痛みに慣れていない。どうにかこの痛みから逃れられぬものか。痛みと不安を紛らわせるために、イソハヤミは辺りを探ってみることにした。旧時代の痕跡が見つかるかもしれない。周りを見渡してみると、リガンドの向こう、岩肌の影に隠れて、直線的な構造物があるのに気付いた。イソハヤミは周りを警戒しながら近づく。イソハヤミの周りには下界について知っている者は1人もいなかったし、イソハヤミもそれが当たり前のことだとしか思っていなかった。唯一下界はもう人の住める環境ではないと聞かされていたが、それがどういう意味かも知らない。ひょっとすると、人を食う化け物が跋扈しているのかもしれない。何もいないことを確かめながら構造物に近寄ると、それが石碑のようなものであることがわかった。イソハヤミの身長よりも少し高い。2メートルと40センチほどになるか。石碑にはつらつらと文字が彫られてあった。イダカの塔で使われている文字に似ているような気もするが、まったくもって解読できない。にわかにイソハヤミの胸が高鳴る。これこそまさに旧時代の遺物やも知れぬ。ここには下界に人が住めなくなった顛末でも書かれているのだろうか。記録して行きたいのに端末が無いのがなんとも口惜しい。イソハヤミがゆっくりとしゃがみ込み、文字をなぞるように石碑に触れた時だった。こちらを狙う視線を感じ、イソハヤミはびくりと顔を上げる。塔の中ではこんな敵意を向けられたことはない。下界は慣れぬことばかりだ。
 イソハヤミが左を向いた先に、視線の主はいた。女だ。髪を後ろに結い、苔色の布を身にまとっている。そして女の眼。透き通るような緑色の眼が、イソハヤミを睨みつけている。あの女はなんだ? 彼女も落ちてきたのか? この敵意は俺に向けられているのか? イソハヤミの頭はさらに混乱していく。乱れる思考の中で彼はふと気づく。緑の眼、あの眼は、どこかで見たことがある。
……アメヒツチ? いや、そんなはずはない。塔の象徴であるあの尊き女性が随行も伴わずに下界にいるとは考え難い。アメヒツチの姿は数回しか見たことはない。が、顔形はこの女とは異なる、ように思える。しかし緑色の眼など、アメヒツチに連なる血族以外にいるとは聞いたことがない。
 ともかく、この敵意がイソハヤミに向けられていることはもはや間違いがないようだ。イソハヤミは自分には敵意が無いこと、得物も持ちあわせていないことを示すために、ゆっくりと両手を広げて立ち上がろうとした。しかし、体勢を変えたせいで右胸に鋭い痛みが走る。イソハヤミが思わず石碑に手をついてしまった瞬間、女は身につけた布を翻し、大きく振りかぶった。直後、女の手から卵ほどの大きさの石つぶてが放たれる。イソハヤミは女の眼に射抜かれたまま、その石を避けることもできず、瞬きをしたのち、鈍い音。そして右胸の痛みとは違う、鈍いけれど耐え難い痛み。
 
 目を覚ましたイソハヤミは自分がふかふかとしたベッドに寝かされていることに気付く。ここは病院か、俺は塔に戻れたのだな。イソハヤミがそんなことを考えていると、彼の生体反応が通知されたのだろう、医師がやってきた。肋骨と左眉の上の頭蓋にひびが入っていました、地面と接触した衝撃のせいでしょう、と医師は言う。頭の傷はそうではないのです、と訂正する気も起きず、イソハヤミはぼんやりと医師の言葉を聞いていた。
「自己治癒機能と自浄機能をアクティベートした結果、現時点で快癒状態と言って差し支えありません。テロメライズも施してありますので、ご安心下さい」
 そう言えば痛みがない。なんと喜ばしいことだろう。深呼吸もできる。だのにこの気持ちはなんだろう。何かが物足りない。イソハヤミはそんなことを考えながら、言われるままに手続きを済ませ帰宅した。労働本部から二日ほどの休息を命じられた後、イソハヤミは塔の外壁の整備業務から外され、塔内の物資輸送経路の設計班に組み込まれることになった。イソハヤミは塔の中の構造にはいささか詳しくなったが、今知りたいのは塔の外のことだった。下界のことだった。
 その頃からイソハヤミは夢を見るようになった。塔から落ちる夢。リガンドの羽ばたきは弱まり、下降スピードが次第に速まる。夢の中でイソハヤミはまた怪我をして、肋骨が鋭く痛む。そしていつもあの女の緑の眼に射抜かれて目が覚めるのだった。夢の中で肋骨の痛みはやけに生々しく感じられて、目が覚める度にイソハヤミは痛みがないことに安堵する。痛み。いつ来るかわからない痛み。それゆえに痛みの無い今が愛おしく思える。だが、今は痛まないはずの肋骨の代わりに、胸のちょうど真ん中あたりがぼんやりと痛むのだった。イソハヤミにはその痛みの原因がよくわからなかった。あの女のせいのような気もする。未知との出会いのきっかけに拒まれたことが、この痛みを産んでいるのだろうか。ただ、やはり、あの緑の眼のせいのようにも思う。……アメヒツチの眼が俺たちを育むための緑だとすると、あの女の眼は俺を殺す毒の緑だ。だが、あんなに綺麗な毒を俺は知らない。
 イソハヤミは考える。この痛みから俺は逃れることができるのだろうか。痛みの正体すらわからぬのに、癒えることはあるのだろうか。それが近い未来ではないことは確かだ。では、いつか遠い将来に、この痛みは消えているのだろうか。イソハヤミは下唇を噛む。その柔らかな痛みを釣り針にして、胸の痛みの正体を探ろうとする。ふいに、塔の中心部に近いチタ地区にいることがどうも息苦しく思われて、イソハヤミは外套膜と呼ばれる塔の周縁地区に向かった。外套膜には塔の一階分の円周を丸ごと囲む巨大な、気の遠くなるほど巨大な窓がある。ここからなら、下界と塔の上方を隔てるメンブレンがよく見える。この窓は透明だが、メンブレンと類似の成分で構成されているらしい。以前は消磁装置を使うことでこの窓を通り、外壁の点検に向かっていた。今は装置を持たないのでそれもできない。だが、それでも。
 それからイソハヤミは、息苦しさを覚えると時間の許す限りこの外套膜を訪れるようになった。以前の同僚が心配そうに声をかけることもあるが、イソハヤミの胸には届かない。イソハヤミは生返事をして、塔の外を眺め続ける。
――俺はまた塔から落ちるかも知れぬ。
 雄大に波打つメンブレンを見下ろす度に、イソハヤミはそう思ってしまうのだ。
 
 

 

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